香りが記憶を呼び覚まし、湯気が心をほぐすひととき。そうした日常の豊かさは、単なる感覚以上の意味を持つ。 ともに嗜好品を取り扱う事業を営むJTとTeaRoom。両者がこれまで行ってきた単なる消費物を超えた文化的価値の創出から、次の時代における産業と文化の関係性、そしてその先の社会のあり方について、新たな地平を紡いでゆく。
始まりは、伝統文化に向き合う中で岩本が気づいた可能性だった。
「9歳から裏千家で修業を続ける中で、文化の解釈だけでなく、根底にある思想こそが大切である、と確信しました。先生たちがやられていることは、解釈が中心です。お茶わんを2回時計回りにまわす流派もあれば、逆回しの流派もある。本質はお茶わんを回すことで、客人としての敬意の表明。根底の思想は同じでも、そこには流派による解釈同士の争いがあり、自分には若干の居心地の悪さもありました。だからこそ、伝統文化の解釈だけでなく、裏側の思想を、大切に広めていきたい。そうなると、固定化された伝統文化から脱却をして、その中に潜む有用的な思想を抜き出し、いかに社会へインストールしていくかを考えるに至りました」
伝統文化の解釈論争から有用な思想の抽出へ。文化資本研究所を新設する岩本らは、文化の深層に潜む価値ある「無形資産」に着目。人々が豊かに暮らし、働く視点を与える「オペレーティング・システム(OS)」としてとらえ直した。この文化の中に埋もれた「豊かさのOS」を、文化資本と定義したのである。
「文化とは、人々が豊かに生きるために蓄積していたものです。いわば、集合的無意識の精神と知恵の総体。見方を変えて活かせば、豊かに生きるための視点として機能するOSとなると考えています」(岩本)
文化資本への着目は、「資本(キャピタル)」や「資産(アセット)」の意味を問い直す試みでもある。その発想によって有限資産に、無形の世界で存在価値を与えられるという。
「資源が有限の世の中で、有形資産だけをみていると、例えばお茶わんが割れたというのは価値がゼロになる行為です。しかし、それを『その時代が紡いだ景色』と見立てることで、割れたお茶碗に、存在価値を与えられる。世界中の争いは、有限資源の奪い合いばかりです。土地の奪い合いに、資源の奪い合い。有限の資源という前提で、効率的に人と地球を利用する仕組みから、貧困も、気候変動も生じています。お茶わんが割れたら、そこを景色と呼ぶ発想から、有限資源の配分を楽しみ、豊かに生きる視点を得られると思っています」(岩本)
見いだされた無形の価値は、資本として蓄積され、やがて資産となる。これが文化資本の発想だ。文化資本研究所では、まず日本の伝統文化の「茶の湯」を対象とした研究から、豊かさのOSとなる文化資本の発掘を目指す。研究手法としてはパターン・ランゲージを活用。同領域を専門とする慶應義塾大学SFC研究所上席所員・長井雅史が参画する。
岩本らが野心的なのは、文化資本が生む豊かさの先に、ビジネスへの活用の道筋を描いていることにある。企業が自社に眠る文化を発掘、文化資本化し、企業経営に生かす文化資本経営の方法論を、茶の湯を代表とする日本文化研究から確立させようと意気込む。
文化資本経営とは、資金・財という経済資本中心の経営観を改めたもの。資本や資産は、既成の経済概念の枠組みで考えられているよりも、はるかに広く、多様である。そうとらえ直し、企業の中の有形資産ではなく、企業活動で蓄積されてきた文化的な無形資産に、着目する。コーチングを軸とした「法人向けの組織開発サービス」等を展開するTHE COACH前代表取締役で、エグゼクティブコーチの岡田裕介は、文化資本経営の「無意識の顕在化」の意義をこう語る。
「企業の経営や事業活動を支え、発展させていく力の源は、人であり、蓄積してきた文化そのものです。ただ、それらが経済価値としてすぐに結びつかない場合に、軽視されてしまう。結果、マーケットやプロダクトは急成長しているものの組織崩壊により、経営が立ちゆかなくなってしまう企業は少なくありません。そんなときに多くの企業は、外にだけ答えを求めようとして外部のコンサルタントなどに依存してしまうのですが、外ではなく内から見いだすのが文化資本経営。組織内の人々が営みのなかで、まさに無意識に行われてきた文化を意識化し、普遍的なものにしていくアプローチです。また、文化の源泉は、企業の起源に宿っていることが多いです。創業者が引退してプロダクトやサービスだけが残っている企業も少なくないですが、創業者が生み出した文化の継承がうまくいかなければ、存在意義や力の源泉を失います。組織に眠るOSを呼び覚まし、文化資本として解き放つことが重要です」(岡田)
普遍化された文化資本は、事業の種になる。例えば、教育サービス化。日本の運送会社の破損率は、世界的に非常に低い。その低破損率を裏付ける文化を特定できれば、世界の運送会社へ価値観の教育サービスを展開できる。また、文化資本を生かした異業種での新規事業も考えられる。飲食産業の本質を、マニュアル化と標準化と考えれば、その文化資本を転用して、介護や医療など「非効率な分野」へ事業展開していける。カルチャーデザインファームKESIKIにて、組織文化や事業デザインを支援する大貫冬斗は「文化資本経営の可能性」を次のように考える。
「日本はいわば、無形資産大国です。企業のカルチャーデザインに取り組む中でよく感じるのは、日本企業は、自分たちが潜在的にもつ無形資産、つまりは文化資本を『当たり前』というラベルをはって見過ごしがちです。鉄道会社を例とすれば、価値ある資産は駅の設備だけではなく、定時運行を支える文化でしょう。このような、歴史の中で培ってきた『当たり前』の価値に再度光を当てることで、現在の組織にも事業にも競争力を与えることができる。これが、今後の日本経済を豊かにする別解となるはずです」(大貫)
文化資本経営には、先駆者がいる。元資生堂会長の故・福原義春だ。資生堂と有識者との討議をまとめた『文化資本の経営』を1999年に出版した福原は、「文化資本経営」提唱者である。
「『文化資本の経営』は一度絶版となったこともあり、埋もれていたコンセプトですが、非常に現代的です。むしろこの時代に、必要なことを言い当てています。だからこそ今、私たちが継承し、アップデートすることで、文化に潜む日本の可能性を、世に問うていきたいと思います」(岩本)